関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦です。
勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がっていきます。
関ヶ原の戦いは豊臣秀吉の死後の話ですが、戦いの発端は豊臣秀吉の生前から始まっていました。
天下統一を果たし関白となった豊臣秀吉は、関白を絶対的な頂点とする新しい地位を作りました。
これが、「五大老」と「五奉行」です。
徳川家康も五大老の1人でした。
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、五大老宛てに、「秀頼(秀吉の息子)を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」という内容の遺言状を書きました。
理由は、後継ぎである豊臣秀頼がまだ6歳であったため、そして豊臣家を守りたかったためです。
しかし、徳川家康は遺言状に反していきました。
政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、伊達政宗や福島正則などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料の増減に関与したりと、やりたい放題でした。
そんな徳川家康にストップをかけたのが、石田三成でした。
「豊臣秀頼を立てるべきだ」と徳川家康に物申したのです。
石田三成は、豊臣秀吉がまた羽柴だったころに出会った、秀吉のお気に入りの家臣です。
ですが、秀吉に気に入られていたことや、「朝鮮出兵」での石田三成の伝達不足などから、周りからは妬み、恨み、不満などが溜まり、石田三成暗殺未遂事件も行われました。
そして秀吉の死後、徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、石田三成は徳川家康への不信感を募らせていました。
また、石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。
会津の上杉景勝とその家老である直江兼続です。
そこで、徳川家康に1通の手紙を渡しました。
「最近の貴方の行いは目に余ります。秀頼様に何か言うことはないですか?」と。
これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。
この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。
徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位のため、「目上の者に向かって、その無礼だ!」ということになるのです。
徳川家康は上杉景勝に「大阪へ来い」と詰問状を送りますが、それを上杉景勝が一蹴。
徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へ出向きます。
その後、不在の大阪を狙って石田三成側が西軍を結成し、それに気づいたのか、家康側は会津攻めを中止、小山に兵を集め東軍を結成し、関ヶ原の戦いが始まりました。
始めは西軍が有利かと思われましたが、東軍の内通者や裏切り、部下の負傷などであれよあれよと戦況は覆され、関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱で西軍は壊滅。
そこから徳川家の長い歴史が始まったのです。