源頼朝は日本初の武家政権である鎌倉幕府を開いた人物として知られています。
源頼朝の死因は病死とされますが、必ずしも明確ではありません。
というのも『吾妻鏡』では、1196年から1199年1月、つまり源頼朝が亡くなるまでの約3年間の記録が欠落しているのです。
そしていきなり1199年2月に飛び、源頼朝の長男である源頼家が2代将軍となる旨の記述から再開します。
『吾妻鏡』にて源頼朝の死について触れられたのは、その死から13年もたった1212年2月28日の項です。
内容としては、相模国(現在の神奈川県)を流れる相模河の橋が壊れていて、修理すべきかの判断を3代将軍・源実朝に仰いだというものです。
その中で、その橋はもともと1198年に新設されたもので、源頼朝がその開通式に参列した際、帰路に落馬し、程なくして亡くなったという説明がわずかに記載されているのみなのです。
なお『吾妻鏡』には、落馬した日付や死亡した日付の記載はありませんが、源頼朝が死亡した当時の公家たちの日記や史料によると、1198年12月27日に落馬、翌年1月11日に危篤に陥り13日に死去したとあるため、落馬してから亡くなるまでは2週間程度だったといわれています。
そのため、源頼朝の死因として現在有名なのが、『吾妻鏡』の記述を根拠とした落馬説というわけです。
ただし一言で落馬といっても、死因として考えると詳細については諸説あります。例えば落馬による頭部外傷性の脳出血や、傷からの破傷風など、さまざまな可能性が考えられます。
他に考えられるのがまず病気説です。
源頼朝が落馬したのは事実として、武家のリーダーとして、乗馬には慣れていたはずの源頼朝がなぜ落馬したのか、という点について疑問が残ります。
そこで、急な体調の変化により騎馬状態を維持できなかったのではないか、つまり脳卒中や心臓発作などの突発的な発症、またはその前ぶれとしてのめまいやしびれを起こし、結果として落馬したとするのが病気説です。
源頼朝は塩辛いものを好んでいたことが知られており、また幕府を開いたばかりのリーダーとしてストレスを抱えていたことが想像されます。
さらに当時の歌人である藤原定家は『明月記』に源頼朝が亡くなったのは急病だろうという内容を書き残しています。
歯周病による脳卒中や誤嚥性肺炎説もあります。
『吾妻鏡』によると、源頼朝は亡くなる4年ほど前か歯の病気に苦しんでいたと記されており、これが歯周病なのではないかと推測できます。
最近の研究では、歯周病菌には動脈硬化や脳梗塞などとの関連性があるとされています。
そのため源頼朝は、歯周病菌により脳卒中を引き起こし、そのことが落馬につながったのではないかという説が成り立ちます。
また歯周病をきっかけとする別の説として、落馬後の療養中に、誤嚥性肺炎、そして敗血症になって死亡したのではというものもあります。
これは水を誤嚥し、気管支から肺へと入ってしまった際に、歯周病菌が一緒に入ってしまって疾患を引き起こしたというものです。
最後に飲水の病(糖尿病)説もあります。
当時、近衛家実によって書かれた日記『猪熊関白記』には、源頼朝は重い飲水の病で、その後亡くなったといううわさを聞いたという旨が書かれています。
水を大量に飲む、つまり喉が渇く病気といえば、糖尿病やその合併症が考えられます。
前述のように、幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、源頼朝の詳細な死因が記載されていなかったために、さまざまな臆測が広まりました。
中には現実離れしている呪い説や、暗殺説なども存在します。
偉大な実績を残した頼朝だからこそ様々な憶測が現在も飛び交っています。