【1867年(慶応3年)1月5日】夏目漱石が誕生した日

歴史を振り返る~今週の出来事~

夏目漱石は、明治時代に活躍した文豪です。

『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など数多くの名作を生み出し、日本の近代作家として最高峰に上りつめた人物です。

その活動期間は意外に短く、処女作『吾輩は猫である』を執筆したのは38歳、死により未完で終わった『明暗』の執筆は49歳の時でした。

小説家漱石の実質的な活動期間は、約10年間だけなのです。

その10年の間に『こころ』『道草』『それから』など文学史に残る多くの作品を手がけました。

漱石が生まれた時、父はすでに50歳、母千枝は41歳でした。

また漱石の上には母親違いの1人の姉と、4人の兄がいたことから漱石の誕生はあまり喜ばれず、生後間もなく四谷にあった古道具屋、その後、四谷の名主塩原昇之助の家に里子に出されます。

しかし、養父の不倫が原因で塩原夫妻は離婚、不倫相手が連れ子とともに塩原家に入ったため、漱石は居場所を失い夏目家に戻ります。

漱石は様々な学校を転々としながらも、1890年に現在の東京大学である帝国大学に入学します。

このころから神経衰弱に陥り、長きに渡り苦しめられる事になります。

大学卒業後は講師として勤めていました。

1904年に精神衰弱の治療の一環として夏目漱石は執筆を始めるようになり「吾輩は猫である」が生まれました。

これを機に夏目漱石は作家として生きていくことを決意します。

1907年に朝日新聞社に入社し、職業作家としての道を歩み始めました。

夏目漱石は、複雑な家庭環境で生まれ育ったため、神経質で精神的にも不安定でした。

ただ、学校を転々としていたにも関わらず、成績は常にトップクラス。

非常に頭がよく、負けず嫌いだったようです。

漱石はそんな自分の性格を自覚しており、漱石というペンネームも、負け惜しみや頑固者という意味のある「漱石枕流」からとっているそうです。

また、夏目漱石は印税のシステムを初めて作った人物としても有名です。

それまで作家が得ることが出来た収入は、出版社が1作品ごとに買い取る原稿料のみで、作品が人気になりたくさん売れたとしても、作家がその分の売り上げを貰うことはできませんでした。

夏目漱石はこういった状況を変えようと、印税の制度を作り、弱い立場だった作家の収入を安定させることに成功します。

この印税のシステムのおかげで、作家の立場が高くなり、小説家を志す人々も大きく増加しました。

その後は病気と戦いながらも様々な作品を世に出しますが、1916年12月9日に消化性潰瘍が原因で亡くなりました。