徳川光圀は、水戸藩の2代目の当主です。
父親は、徳川家康の十一男である徳川頼房。
つまり光圀は家康の孫で、徳川家光と、いとこということになります。
徳川頼房は水戸藩の藩祖ではあるものの、光圀の母は正室でも側室でもなく、正室付きの女中の娘に手を出した結果生まれ私生児だったため、当初は頼房の家臣の家で育てられました。
若い頃の光圀はかなり素行の悪い不良少年だったそうです。
しかしそんな光圀も、18歳のときに司馬遷の『史記』にひどく感銘を受けてからはそれまでの態度を改め、学問に没頭します。
水戸藩主となってからは、自我の強い性格を藩政に活かしてさまざまなことにチャレンジしました。
上水道の整備、巨大船に乗っての蝦夷地探検、そして江戸の小石川藩邸に「彰考館」と呼ばれる史局を置いて本格的な日本の通史「大日本史」の編纂作業を行いました。
さらに儒学を奨励し、「水戸学」の基礎を築きました。
その合理的かつ剛毅な性格で幕政に関しても発言力があり、五代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」にも猛反発するなど将軍に逆らうことの出来る数少ない人物の一人でした。
藩主を退いたあとの光圀は、西山(現在の常陸太田市)にて隠居生活を送り、晩年は、侍塚古墳の発掘調査、那須国造碑などの文化財保護に尽力しています。
1700年12月6日に食道がんのため他界しました。
水戸黄門といえば、テレビドラマのように助さん&格さんを従えて諸国漫遊をしていたと思われがちです。
しかし、そんな史実は記録になく、実際は若い頃に鎌倉を巡ったり水戸藩主になってから領内と江戸を往復する程度だったようです。
ただ徳川光圀は、佐々十竹と安積澹泊という2人の家臣を全国各地に派遣しており、彼らが助さん&格さんのモデルになったといわれています。
また光圀自身が名君として庶民に慕われていたのは事実で彼の死後に「水戸黄門仁徳録」という伝記物語が作られました。
それに弥次喜多道中でおなじみの人気滑稽本『東海道中膝栗毛』のエッセンスが加わり2人の家臣が「弥次さん&喜多さん」ならぬ「助さん&格さん」と化した講談『水戸黄門漫遊記』が江戸末期の大ベストセラーになりました。
それがやがて映画やドラマとなって21世紀の今日まで黄門様人気が継承されているというわけです。
ちなみに光圀が「水戸黄門」のネーミングで呼ばれているのは位の高い人物の実名を庶民が口にすることがご法度だったからです。
そのため、藩名の「水戸」と、光圀の武家官位である権中納言の別称である「黄門」を合体した呼び名が広まったのです。