伊能忠敬が全国地図の作成を開始しました。
伊能忠敬は、日本の歴史上初めて科学的な測量を全国にわたって組織的・統一的に行い、日本全土の地図を作成した人物です。
数字・商才に長けていた伊能忠敬は50歳まで家業を全うしていました。
50歳になると、伊能忠敬は家督を長男に譲って隠居。
第2の人生は好きな学問の道に進もうと決め、江戸の深川(現在の東京都江東区)に移り住みます。
そして興味があった暦学の研究を開始しました。
江戸幕府の天文方である高橋至時に弟子入りし、天文学・測量について学び始めました。
昼間は高橋至時から講義を受け、夕方以降は自宅で星の観測に励みました。
同時期にロシア帝国から蝦夷地(現在の北海道)への攻撃を恐れていた江戸幕府は、海岸線の防護こそが急務と考え、正確な蝦夷地の地図を作る必要性を感じていました。
そして、この計画の実行者に選ばれたのが伊能忠敬です。
費用の大半は自腹という厳しい条件でしたが、地球の大きさを知りたいという好奇心には勝てず、伊能忠敬は快諾しました。
1800年、56歳になった伊能忠敬は一行とともに蝦夷地へ向けて出発し、自らの足で日本を測量する旅が始まりました。
当時、測量の基本は歩測(一定の歩幅で歩き、その歩数で距離を測ること)。
伊能忠敬は1歩の歩幅がいつも69cmになるよう訓練していましたが、より正確さを求めて同じ場所を2回以上図りました。
約半年の旅を終えて江戸に戻った伊能忠敬は、早速地図を作成しました。
地図の出来栄えに江戸幕府の役人は感心し、その後は江戸幕府の費用で正式に日本全国の測量を命じられたのです。
蝦夷地への測量旅行を手始めに、1801~1803年には関東・東北・東海・北陸を測量。
1804~1806年には西日本、1808年には四国・淡路島、1809~1813年には九州・四国、1814~1815年には近畿・九州の残り部分と伊豆諸島、1816年に江戸府内の測量を行い、全国を歩いて地図作りを進めました。
約16年間に歩いた距離は合計約40,000km。
地球約1周分を歩いたことになります。
しかし晩年には持病の喘息が悪化し、伊能忠敬は1818年、自宅で73歳の生涯を閉じました。
日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図」は、伊能忠敬没後の1821年7月10日、弟子の高橋景保らによって完成しました。
現在の日本地図とほとんど変わらない正確さが驚きを与えました。