【1833年(天保4年)10月15日】新渡戸稲造が亡くなった日

歴史を振り返る~今週の出来事~

新渡戸稲造が亡くなった日です。

新渡戸稲造は、1933年のこの日、72歳で亡くなりました。

新渡戸稲造は江戸時代末期に生まれ、国際人として明治・大正・昭和と、激動の時代を生き抜いた教育家・農政学者です。

また、1984年から2007年まで5000円札の肖像画に使われていた人物でもあります。

国際的な政治家、農学者、教育者としての3つの顔を持つ彼は、江戸時代に盛岡で生まれ、「稲之助」という名前を付けられました。

9歳のとき、叔父の養子として上京し東京で英語を学び、1877年に札幌農学校に入学しました。

1883年には再び上京して英語教師として勤めたあと、東京大学に入学しました。

しかし東京大学は翌年に中退、アメリカ・ドイツに留学して、経済学や農政学、英文学などについて学びます。

帰国後、札幌農学校の教授として教育者の道へ進みました。

さらに勤労青少年のための夜間学校「遠友夜学校」を私財で設立、教師は札幌農学校の学生らが務め、無償で教育の提供を行いました。

それからも京都帝国大学や東京帝国大学などの教授として、新渡戸稲造は後進の育成にあたっています。

彼の功績はそれだけではありません。

国際連盟の事務局次長や太平洋問題調査会の理事長として、世界平和に尽力した国際人の顔も持っています。

晩年は日中、日米の関係悪化改善のために奔走しました。

1900年に新渡戸稲造が英語で執筆した『武士道』は英語圏にとどまらず、ドイツ語やポーランド語など7か国語に訳されています。

新渡戸稲造は「日本の道徳思想の根本には武士道がある」として、 “日本と日本人”について海外へ発信するという、重要な役割を果たしました。

新渡戸稲造の言葉として今も伝えられているものに、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」というものがあります。

これは東京大学英文科に入学した際の面接で発せられた言葉です。

面接官はこの言葉について「どういう意味か」と問いただしたところ、新渡戸稲造は「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及させるために働きたい」と伝えました。

このときの言葉のとおり彼はその後、日本や諸外国間の架け橋となって、国際的な活動を行いました。

しかし1933年3月、日本は国際連盟を脱退し戦争へと進んでいくことになります。

新渡戸稲造が亡くなったのは、その年の10月のことでした。