雷記念日とは?
平安時代だった930年のこの日、平安京の清涼殿に落雷があり、時の大納言・藤原清貴をはじめ、朝廷の要人に多くの死傷者が出ました。
それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまいました。
この頃、平安京では長く日照りが続いており、落雷は内裏でも公卿たちが雨乞いのための相談をしている最中の出来事でした。
この事件を目撃した人々は、藤原時平の政治的な策略によって太宰府に左遷され亡くなった、菅原道真の祟りだと信じ、恐れおののいたといいます。
人々は彼を手厚く祀って怒りを鎮めることとしました。
そして947年、菅原道真は北野社に雷の神「天神」として祀られることになりました。
雷記念日は上記の事件が起きたことにちなんでいます。
菅原道真の歴史
全国にある天満宮では、学者として大変優秀だった道真が「学問の神様」として祀られています。
菅原道真は、平安時代の貴族で政治家です。
子供の頃からとても頭がよく、天皇の信頼を得て異例の早さで出世しました。
また、学者の家に生まれ学問にすぐれていたうえ、政治にもたけていました。
菅原道真は若いときから学者や役人としての力を発揮し、右大臣になりました。
しかし菅原道真の出世をよく思わない人物もいました。
それが当時の左大臣である藤原時平です。
藤原時平について
藤原時平は父が太政大臣をしていた名門の生まれで、優秀な人物でした。
藤原時平にしてみれば、さほど家柄も良くない菅原道真が目障りだったのでしょう。
藤原時平は、菅原道真を信頼していた宇多天皇が退位し、醍醐天皇に代わると「菅原道真が娘婿を天皇にしようとしている」と醍醐天皇に告げ口します。
これを信じた醍醐天皇は、菅原道真を九州の大宰府の大宰権帥に左遷してしまいます。
菅原道真は自分にかけられた疑いが晴れるのではないかと、大宰権帥へ左遷されながらも刑が執行免除になるのを待っていました。
しかしその機会は訪れることはなく、菅原道真は大宰府に移ってから2年後に亡くなりました。
菅原道真が学問の神様としてまつられるようになったのは、生前の活躍もありましたが、直接的な理由は死後にあります。
菅原道真の死後、菅原道真追放に関わった人たちが次々と亡くなったためです。
まず対立していた藤原時平が病死し、続いて醍醐天皇の息子も亡くなりました。
そして先ほどの雷騒動があり、当時の大納言をはじめ、菅原道真を追放した関係者が雷に打たれて亡くなりました。
これを当時の人々は「菅原道真の呪いだ」とし、おん霊、すなわち天神としました。『太宰府天満宮』は、天神さまをまつるために御墓所の上に本殿が建てられ、その後お御霊を鎮めるために、京都府の『北野天満宮』が建てられました。
そしてしばらくすると、生前、菅原道真が学問にすぐれていたことから、学問の神とあがめられるようになったのです。