小説家の太宰治が生まれた日
太宰治は1948年(昭和23年)6月13日に、玉川上水で山崎富栄と入水自殺しました。
2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、「桜桃忌」と名付けられました。
太宰治は青森県津軽の大地主の家に生まれました。
「学校始まって以来の秀才」とも呼ばれていたと言われています。
16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始め、小説家を目指すようになりました。
ですが、18歳の時に、敬愛する芥川龍之介が自殺、猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄し、義太夫を習って花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓である、小山初代と知り合い、深い仲になりました。
1929年(20歳)に、太宰は最初の自殺未遂
資産家の子という自己の出身階級に悩んだのが自殺の理由だと自著で言っていますが、左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており自身も逮捕から逃れるためではないかとも思われています。
その後、東京帝国大学に入学し、上京し、憧れていた小説家の井伏鱒二に弟子入りしました。
その後、太宰は青森で出会った芸妓の初代を上京させ、彼女と結婚すると主張しました。
名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり、結婚は認められたものの、津島家を除籍されました。
無事に結納は済みましたが、太宰は結納の次の日、銀座のカフェのウェイトレスである、田部シメ子と出会い、そのまま浅草見物など3日間を共に過ごした後、鎌倉の海で薬物自殺を図ったのです。
自殺の結果、シメ子だけが亡くなり、太宰は生き残りました。
一命を取り留めた太宰は青森の碇ヶ関温泉で小山初代と仮祝言をあげました。
26歳になり、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ちた太宰は鎌倉八幡宮の山中にて自殺を企てたが失敗しました。
その直後、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤をきっかけに薬物中毒になりました。
27歳になっても薬物中毒になった太宰は、初代の着物を売ったり、借金をしてでも服用しようとするため、師匠の井伏鱒二は太宰を強制入院させました。
ですが入院の間に初代が不倫をしたことを知った太宰は、またしても心中未遂を図り、離婚しました。
ちなみにこのころの太宰は『逆行』を発表し、第一回芥川賞候補に取り上げられるも「私生活が乱れている」という理由で受賞することができませんでした。
そんな彼を元気付けたのが、井伏鱒二が紹介した2人目の妻、美智子でした。
彼女は太宰にとって、よほどの精神的支えになったのか、これを機に彼は
・『女生徒』・『走れメロス』
・『津軽』・『新ハムレット』
などの名作を連発しました。
芥川賞候補になった際に異議を唱えた川端康成からも称賛され、見事に再起してみせたのです。
ですがうまくいったように見えても、女関係はだらしなかったのが太宰でした。
結婚したばかりの1941年には早速、「小説の書き方を教えてほしい」と頼ってきた、作家の太田静子と不倫関係になりました。
また1947年には美容師の山崎冨栄と不倫。
冨栄はよく働く女性で、太宰の秘書のような立ち位置になったといいます。
1948年執筆の『人間失格』『桜桃』などは冨栄の助力により出来上がった作品だといいます。
そして最終的には冨栄と入水自殺をし、38歳で亡くなりました。